娘を通して自分を振り返ると見えてくるものがある

ADHDは遺伝するのか?これは良く出てくる話だ。なぜADHDを持って生まれてくるんだろうというところにも繋がっている重要テーマだ。
はじめに結論を述べるとADHDは遺伝する。ADHDの特徴や症状の度合いまで完全にコピーとはいかないが、結構近いところまで似る。

今まで私は非ADHD側の人という立場で書いてきたが、最近になって自分はADHDなのかもしれない思う時があった。
色々な失敗と後悔と反省によって少しはマシになってきたと思うが、今でも自分でビックリすることをやってしまう。単身赴任先のアパートの鍵の閉め忘れや照明の消し忘れ、蛇口の閉め忘れなどはいまだにやってしまう。そのまま2~3日アパートを空けることもあるので戻ってきた時には結構なショックを受けてしまう。
それでも年々生きづらさは解消されており、学生だった頃と比べれば大幅に改善されている。

子供の頃の私は、娘と同じで部屋を片付けられなかった。ゴミを捨てる行為は徹底して常に後回しにしていた。
部屋も勉強机もグチャグチャで数ヶ月に一度は片付けるのだが、すぐに散らかってしまう。布団も畳むのが面倒で万年床にしていた。そのせいで布団にカビが生えた事もある。学校の机の中にもいつのプリントなんだかわからない紙がいっぱいクチャクチャニなって入っていた。ランドセルや学生カバンの中も要らないものや紙が隅に隠れていたが私は全然平気だった。
大人になって家を出て会社の寮に入った。寮の私の部屋は見るも無残だった。汚部屋というかゴミ屋敷というか、とにかくテレビ番組でたまに放送されて皆が悲鳴を上げる部屋そのものだった。私は不思議とそれを汚いとか散らかっていると思わなかった。年に1~2回片付けるのだが、捨てる寸前までゴミをゴミとして認識していなかった。自分が使っているものは常に綺麗であり不潔ではないという今思えば何か変な思い込みをしていた。先ほど書いたカビが生えた布団もカビが生えた事はわかっているが、それを汚いと思わず普通に使い続けていた。


他にも誰もが子供の頃に抱く自分は特別だと言う意識を私は30歳過ぎても持っていた。
人付き合いが下手で学校に通っていた頃は友達も少なかった。自分では気がついていなかったが思ったことや気が付いたことをストレートにハッキリ言っていたみたいで人から嫌われる事が多かった。情けは人の為ならずという言葉の真逆で、他人の事を自分の為に利用しようとするクセに、自分が他人の為に優しく接したり利用される事を極端に嫌っていた。誰にもバレずにやっていたつもりだったが、多分これも周囲の人から露骨にバレていたのだろう。


何より驚くべきことに幼稚園から小学校の低学年の時に自分で自分の事を周りの同級生より成長が遅いと自分自身で認識していた。言いたい事が伝えられず口が上手く回らない。走っても足が遅く野球もサッカーも虫取りも自転車もファミコンもいつも人より遅れてできるようになった。その時は知能よりも体力的なところで劣っていると思ったが色々な人の話を聞くと違っていたことに気が付いた。当時は何故自分だけ成長が遅いのかがわからなかった。どうでもいいことだが大人になり冷静に考えた結果、かけっこで遅かったのはスタートダッシュでワンテンポ遅れていたからだ。色々な事が気になって仕方が無く全く集中していない。ヨーイ・ドンのンをキッチリ聞いてから走り出すのでヨーイ・ドンのドに合わせて走り出す子に最初から差をつけられた。その差が広がる事はないが縮まることもないので勝てなかった。特に運動会は酷かった走っている途中に観にきてくれた家族が気になって前を見ずに走っていた。運動会ではいつもビリだった。娘も私と同じで走るのが遅かった。そこで小学校の高学年の時の運動会直前にスタートダッシュの反応だけを練習させた。練習の甲斐があり、いつも後ろでゴールしてくる娘がその時だけは1位でゴールした。
小学校、中学校と吹奏楽部で楽器を吹いていた。これにはかなりハマってしまい、学校生活の殆どの時間を楽器演奏の練習に注いだ。その結果、直ぐに上手に吹けるようになり、この地域では誰よりも上手いと本気で思っていた。良くわからない根拠の無い自信がみなぎっていた。
高校生になり中学生の時は校則で丸坊主だったが高校に入ってからは意気込んで髪を伸ばした。髪を逆立て奇抜な髪型にしていたときもあった。その時に使う整髪料など何種類集めて使ったかわからない。髪型にしても整髪料にしてもコレといった決まったものが無く。40歳を過ぎた今でも決まった髪型に決められずにいる。おまけに40歳過ぎても無精ひげのまま会社に通っていた。毎日剃るようになったのはここ2年くらい前からだ。服装も40歳直前まで穴の開いた服やバイクで転んだときに着ていた破れたウインドブレーカー、サイズの合っていないシャツなどを着て会社に行っていたが何とも思わっていなかった。それも私が着ているんだから決して変には見えないという根拠の無い自信と思い込みがあった。
学校の成績については小学生のときは間違いなくクラスでトップレベルだと思うくらいテストの点数は良かったのだが不思議と通知表を見るそれほど良い評価はついていなかった。必ず学校の様子や生活の欄には落ち着きが無いと書かれていたが何故落ち着きが無いと書かれるのかわからなかった。小学校高学年から中学生では吹奏楽部で楽器練習に没頭しており、練習のつもりで好きなクラシック音楽をしょっちゅう聞いていた。クラシックは一曲が1時間くらいある。もの凄く時間が掛かるのだ。これを好きだからと言って平気で毎日2~3曲聞いていた。自分がそのオケにいるかのようなイメージで浸っていた。こんな生活を送っていたので勉強する時間が無く、残念な事に成績は平均点ど真ん中レベルだった。中学3年になり、流石にコレではまずいと思い何度か頑張って勉強した。その時だけは極端に上位に食い込んだ。でも長続きする事は無く直ぐに中位に埋もれ、埋もれては這い上がり這い上がっては埋もれを繰返した。あまりにも不安定なのでカンニングを疑われたことがあるが不正は一切していない。ちなみに良い点を取れたテスト問題を後日もう一度テストすると全く点が取れない事があった。勉強した事が身についておらず直ぐに忘れて解けなくなるのだった。中学から先も没頭する対象は変わったが決していい成績取った事は無かった。
ちなみに私が高校を選んだ理由は家から近く自分の学力で無理なく入れるレベルだったからだった。

私はかなり情熱的で喜怒哀楽が激しいと思っているのだが、なぜか仏頂面で顔に出ることがあまり無かった。若い頃は無表情を利用してカッコつけていたのだが、そのせいで余計にとっつき難い冷めた人で、口を開けばズケズケと人の事を思いやる事をせずに話してしまう。こんな調子なので私の周りに人が集まることはまず無かった。いまでこそ酒飲み友達とかできたが気をつけていないと直ぐにまたズケズケと人が触れられたくない所まで踏み込んでしまう。

社会に出てからは何度か躓いたことはあったが何とか今でも仕事を続ける事ができている。これは幸い事務職や営業職ではなく技術職についた事が功を奏したのではないかと自己分析している。仕事に没頭できる環境だったので色々な事を学ぶ事ができた。昔は情熱的で喜怒哀楽が激しく変な思い込みや妄想癖が少なからずあったが、仕事を通じて色々と改善し評価データを取り結果を冷静に分析する作業を繰返すうちにありのままの事実を客観的に受け止める事ができるようになった。原因究明の際の推測やメカニズム考察といったほとんど妄想のような作業も得意だった。調査して改善を繰り返すと、どこまでも深彫りしていく。しかし仕事なのでそれをどうこう言われる事はなかった。色々な経験を積み冷静さが少し身についたお陰でエンジニアとしては飛躍的に成長できたと思っている。新たな実験や改善、改造ネタなどあまり苦にせずアイデアが出てくる。この辺はもしかするとあまり目立っていないが衝動的な事が影響しているのかもしれない。
私の性格や特徴と仕事のマッチングが良かったのか、自分なりに努力して何とか合わせて適応できたからなのかはハッキリしないが特に不満も無く仕事している。きっとラッキーだったんだろう。

ところで私の母も、母が若い頃から思い込みが激しい人だった。子供の私ですら母は嘘をついているのか本当にそう思っているのかがわからないほど偏った見方をする人だった。また母は掃除など一応はするが部屋はそんなに綺麗に片付いている感じはしなかった。片付けがいい加減で白菜を灯油缶の上に置きすっかり灯油の臭い染み付いた白菜で灯油風味のお味噌汁を作ってみたり、8月に余ったご飯を冷蔵庫にしまわず、後日痛んでしまったご飯で焼きおにぎりを作り母以外の家族全員がおなかを壊したことも鮮明に覚えている。残念ながら母は味音痴で胃腸が強い人だった。
ちなみに妻もADHDの傾向があると思っている。私や母、娘は注意欠陥が強く出ている傾向だが妻は傾向が違う。衝動的な傾向が強い。正義感がもの凄く強くそれが災いして後先を考えないまま喧嘩を売ってしまうことが多々ある。話す言葉も主語や目的語が抜けたまま誰に何を話しかけているのかわからない時がある。思い込みも激しい。娘は私よりも妻のほうがADHDの特徴が強く出ていると思っているらしい。

こうして書き出してみると学生時代の私は今の娘と酷似している。
昨日まで娘の事を書いてきたきた記事はキッチリ観察して書いたように思うかもしれないがそれだけではない。
何となく考え方がわかってしまうからやってる事の意味がわかる。娘がのめり込みそうな事も大体わかる。突拍子も無い事やってしまうことも似ている。
娘は私の学生時代と同じであまり友達付き合いが得意なほうではない。それも同じだ。

私は娘を通して自分の事を見てきたが、まだ娘は私を通して自分を見ることはできないだろう。
いつかそんな時がきたらこの話題で盛り上がってみたい。